「又三郎」とはどんな曲?——基本情報と宮沢賢治との関係
ヨルシカ「又三郎」は、2021年6月にデジタルシングルとしてリリースされた楽曲だ。作詞・作曲はn-buna。ドコモdアニメストアのCMソングとして起用され、その後2023年4月5日リリースの音楽画集「幻燈」にも収録されている。
タイトルが示す通り、この曲は宮沢賢治の短編小説『風の又三郎』をモチーフに制作された。n-buna自身が「現代社会の閉塞感、不安、憂鬱さなどを打ち壊してほしいという想いを風の子に託した」と語っており、ヨルシカが文学オマージュ楽曲の中でも特に直接的に「今の時代へのメッセージ」を込めた一曲といえる。
【基本情報】
楽曲名:又三郎
アーティスト:ヨルシカ
リリース日:2021年6月
作詞・作曲:n-buna
収録作品:音楽画集「幻燈」(2023年)
タイアップ:ドコモdアニメストアCMソング
モチーフ:宮沢賢治『風の又三郎』
宮沢賢治『風の又三郎』とはどんな物語?——元ネタを知ることで歌詞の深みが増す
ヨルシカ「又三郎」を深く読み解くためには、元ネタである宮沢賢治の短編小説『風の又三郎』のあらすじを把握しておく必要がある。
物語の舞台は東北の田舎にある小さな小学校。そこに「高田三郎」という都会育ちの転校生が突然現れる。子どもたちは、地元に伝わる「風の又三郎(風の神様の子)」の伝説と三郎を重ね合わせ、親しみと恐れが入り混じった感情を抱く。三郎は約10日後、嵐の翌朝に突然いなくなる。子どもたちは「やっぱりあいつは又三郎だったんだ」と結論付ける。
この物語が描くのは、異質な存在への「親しみと排除」という人間の本性だ。風の子のように自由で規格外の存在は、社会の中で最終的にはじき出されてしまう——そういう普遍的な構造が、n-bunaの目には「現代社会の閉塞感」と重なって見えたのだろう。

歌詞考察①「風を待っていたんだ」——停滞した日常への叫び
冒頭から繰り返される「風を待っていたんだ」というフレーズは、この曲の核心を一言で表している。
「何もない生活はきっと退屈過ぎるから」という歌詞が続くが、ここで言う「退屈」は単なる暇さではない。型にはまった社会、変わり映えのしない毎日、声を上げても何も変わらない現実——そういう閉塞感の中で、何かを壊してくれる大きな力を待っている状態だ。
「貴方」という言葉で呼ばれる又三郎は、その閉塞を一気に吹き飛ばす存在として登場する。水溜りに足を突っ込んであくびをするような、社会のルールを意にも介さない無邪気さ——それが「僕」には救いに映る。
歌詞考察②「吹けば青嵐」——季語と破壊衝動の同居
サビの「吹けば青嵐」という一節は、歌詞の中でも特に詩的な密度が高いフレーズだ。
「青嵐(あおあらし)」とは夏の季語で、初夏の頃に青々とした木々を揺らして吹き荒れる強風のことを指す。清涼感と暴力性を同時に持つ言葉であり、ヨルシカの楽曲が持つ「美しさと破壊衝動の同居」というスタイルにぴったりと合っている。
「言葉も飛ばしてしまえ」「何もかも捨ててしまえ」という過激な要求と、初夏の爽やかな風という清涼なイメージが並ぶことで、この曲全体の矛盾した美しさが生まれている。
歌詞考察③「青い胡桃も吹き飛ばせ 酸っぱいかりんも吹き飛ばせ」——賢治の一節を現代に引用する意味
曲の中盤に登場する「青い胡桃も吹き飛ばせ 酸っぱいかりんも吹き飛ばせ」は、宮沢賢治の原作『風の又三郎』の冒頭に登場する「青いくるみも吹き飛ばせ すっぱいかりんも吹き飛ばせ」という歌の引用だ。
原作では子どもたちが夢の中で聞く又三郎の歌として描かれる。まだ熟していない青い胡桃、酸っぱくて食べられないかりん——未熟なもの、苦いもの、今の自分が抱えている不完全さをすべて吹き飛ばしてしまえ、という意味として解釈できる。
n-bunaはこの一節を意図的に引用し、「この街を壊す風を」という現代的な破壊の要求と接続している。100年近く前の文学の言葉が、2021年の社会への怒りと自然に繋がる構造は、n-bunaの文学オマージュの中でも特に巧みな例だ。
歌詞考察④「型に合った社会は随分窮屈すぎるから」——n-bunaが現代に向けた直接的な怒り
ヨルシカの楽曲の中で「又三郎」が特別な位置を占めるのは、n-bunaが珍しく「社会批評」を正面から打ち出した曲だからだ。
「型に合った社会は随分窮屈すぎるから」という一節は、ヨルシカの公式サイトでも「閉塞感、不安、憂鬱さを打ち壊してほしい」という制作背景が明記されており、これがn-bunaの本音として歌詞に乗っていることがわかる。
通常n-bunaの歌詞は物語や比喩を多用して感情を間接的に描くが、「又三郎」では「型に合った社会」「誰かも忘れてしまう」という言葉が驚くほどストレートだ。宮沢賢治という文学の皮を一枚かぶせながらも、その内側には2021年という時代を生きることへの苛立ちがむき出しになっている。
「どっどど どどうど」——原作の擬音が果たす役割
サビに繰り返し登場する「どっどど どどうど」は、原作小説で風の音を表す独特の擬音語だ。宮沢賢治はこの風の音に強烈な個性を持たせており、『風の又三郎』はこの擬音から始まる。
ヨルシカの楽曲でこの擬音が繰り返されることで、曲の中に「又三郎を呼ぶ儀式」のような感覚が生まれる。言葉として意味を持つというより、リズムと音として体に響く——それが疾走感のある楽曲と組み合わさることで、まるで本当に嵐の中にいるような没入感を生んでいる。

まとめ——「又三郎」が今の時代に刺さる理由
ヨルシカ「又三郎」は、宮沢賢治の100年近く前の文学を鮮やかに現代に蘇らせた楽曲だ。
閉塞した日常、型にはまった社会、何かを変えてくれる存在への渇望——これらは2021年のコロナ禍という時代背景とも深く共鳴しており、「今」を生きる人に向けて書かれた曲であることは明らかだ。しかしその一方で、「型にはまらない存在を排除してしまう人間の本性」という原作のテーマも背景に流れており、単純な応援歌には収まらない複雑な奥行きがある。
疾走感のあるギターリフ、suisの力強いボーカル、そして「どっどど どどうど」という呪文のような言葉——「又三郎」はn-bunaの怒りと文学愛が一体となった、ヨルシカの中でも異色の輝きを持つ一曲だ。


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