「太陽」とはどんな曲?——基本情報まとめ
ヨルシカ「太陽」は、2026年3月4日リリースの5thフルアルバム『二人称』の7曲目に収録された楽曲だ。作詞・作曲・編曲はn-buna。もともと横浜流星主演・映画『正体』(2024年11月29日公開)の主題歌として書き下ろされた曲で、アルバム『二人称』にタイアップ曲として収録されている。
【基本情報】
収録アルバム:『二人称』(2026年3月4日)
トラック:7曲目
作詞・作曲・編曲:n-buna
タイアップ:映画『正体』(2024年11月29日公開)主題歌
監督:藤井道人 / 主演:横浜流星
n-buna本人が語った制作の背景——「讃美歌」というキーワード
「太陽」の制作について、n-bunaは映画公式サイトに次のようなコメントを寄せている。
「太陽をモチーフに、陽の光を蝶の羽根に見立てて詩を書きました。今ヨルシカで作りたいものと、映画の共通項を探すところから制作が始まっています。正体という映画の持つ余韻と調和する仕上がりになっていれば幸いです。」
また、n-bunaは藤井道人監督との打ち合わせで「讃美歌」というワードが印象的だったと語っている。映画のラストに流れる主題歌は、「始まりの一音だけで作品の持つ余韻を消し飛ばしかねないという恐怖がある」とも述べており、どれだけ慎重に映画と向き合いながら作られた曲かが伝わってくる。
「讃美歌」——神を称え、人を癒し、祈りを捧げる歌。その言葉がそのまま「太陽」という曲の本質を表している。
歌詞の意味考察①——「太陽の光を蝶の羽根に見立てる」という発想
n-bunaが明かした通り、「太陽」は陽の光を蝶の羽根に見立てた詩だ。この視点から歌詞を読み直すと、全体が鮮やかに見えてくる。
「美しい蝶の羽を見た 名前も知らずに」——蝶は太陽の光の比喩であり、同時に映画の主人公・鏑木のような「名前のない存在」の比喩でもある。「名前も知らずに」という一節が示すのは、太陽は名前を問わずすべての者を照らすということだ。
「美しい蝶の羽を私につけて / 緩やかな速度で追い抜いてゆく」——光を羽として身につけることで、重力から解き放たれていく。5つの顔を持ち逃げ続ける鏑木が、「蝶の羽」を得てようやく自分の速度で生きていくイメージが重なる。
歌詞の意味考察②——萩原朔太郎「蝶を夢む」との繋がり
「太陽」の詩的な基盤として、n-bunaが参考にしたのが詩人・萩原朔太郎の「蝶を夢む」という詩だ。「あたらしい座敷のなかで 蝶がはねをひろげてゐる 白い あつぼつたい 紙のやうなはねをふるはしてゐる」という一節が土台にある。
萩原朔太郎は『月に吠える』などで知られる近代詩の巨人で、n-bunaはかねてから萩原朔太郎の詩に強い影響を受けていることを語っている。実際に、書簡型小説『二人称』の少年が手紙の中で萩原朔太郎の名前を引用する場面もあるほどだ。
「蝶を夢む」が描く蝶のイメージ——白く、儚く、羽をふるわせる存在——は、「太陽」では「美しい蝶の羽」として変奏されている。n-bunaが萩原朔太郎の詩世界を現代の映画主題歌として読み替えた、文学的な継承の一曲だ。
歌詞の意味考察③——「砂漠の砂丘を飲み干したい」「醜い私を知らずに」の読み方
「砂漠の砂丘を飲み干してみたい / 乾きの一つも知らずに」という一節は、この曲の核心にある矛盾だ。砂漠を飲み干したいという渇望を、蝶(=太陽の光)は「乾きの一つも知らずに」飛んでいく。蝶は渇望を持たない。だからこそ美しい。
「美しい蝶の羽を見た / 醜い私を知らずに」——ここで語り手は「醜い私」という言葉を使う。太陽の光(蝶)は、語り手の醜さを知らないまま照らし続ける。これは映画の鏑木——死刑囚として世間から断罪された存在——への讃美歌として完璧に機能している。どれだけ醜くとも、太陽は変わらず光を降り注ぐ。
「海原を千も飲み干していく / 少しも満ちるを知らずに」——一番の「砂漠」が二番では「海原」に変わる。砂漠から海へ——求めるものの規模が広がっているが、蝶(太陽)はそれでも「満ちるを知らずに」飛び続ける。太陽の無限性と、人間の渇望の有限性が対置された構造だ。
歌詞の意味考察④——「私が死ぬ日の朝も、その他の日々も」という肯定
「太陽」で最も重要な一節がこれだ。「私が歩いた道も、私の足も / 私が触った花も、私の指も / 私が死ぬ日の朝も、その他の日々も / 緩やかな速度で追い抜いてゆく」
「私が死ぬ日の朝も」——これは死の否定ではなく、死をも含めた全人生の肯定だ。死の朝でさえ、太陽は変わらず昇る。死刑囚として逃亡を続けた鏑木の人生も、その死に向かう朝も、すべては太陽の光の中にある。「太陽」が讃美歌である理由が、この一行に凝縮されている。
n-bunaが「人の心に寄り添う主題歌」と意図した通り、この曲は特定の誰かを讃えるのではなく、生きることすべて——醜さも、渇望も、死さえも——を静かに包み込む。
アルバム「二人称」の中での「太陽」——楽観の象徴として
アルバム『二人称』の中で「太陽」は特異な位置を占めている。多くの楽曲が孤独・死・苦しみ・怒りといったテーマを扱う中で、「太陽」は「楽観の象徴」として機能している。
アルバムにおける「二人称」は「貴方」——つまり「あなた」だ。「太陽」で描かれるのは、どこまでも明るく、渇望を知らず、醜さを知らずに照らし続ける「貴方(太陽)」の存在だ。これは書簡型小説の「先生」が少年に送る光のようでもある。学ぶことを教えてくれる存在、道を照らしてくれる存在——「太陽」は二人称で呼びかける対象への最大限の讃歌だ。

まとめ——「太陽」はすべての人への讃美歌
ヨルシカ「太陽」は、「陽の光を蝶の羽に見立てた詩」というn-bunaのシンプルな発想から生まれ、映画『正体』の鏑木という人物への讃美歌として完成した一曲だ。萩原朔太郎の詩世界を継承しながら、「醜い私」「死ぬ日の朝」までをも静かに肯定する歌詞は、特定の映画や人物を超えて、あらゆる聴き手に届く普遍性を持っている。
太陽は名前を問わない。醜さを知らない。ただ光を降り注ぐ——アルバム『二人称』の7曲目に置かれたこの讃美歌が、少年の詩の旅に差し込む一条の光として機能している。


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